助け待ち続ける“残留日本人”「棄民です」 フィリピン各地で…無国籍のまま戦後78年【Jの追跡】(2023年8月16日)
我々が上陸したのは電気も道路もないフィリピンの小さな島。出迎えてくれたのは「私たちは日本人なんです」という高齢の女性でした。その後もフィリピン各地で「自分は日本人」という人たちに次々遭遇。こんな秘境になぜ?
彼らは国籍を持たない残留日本人2世でした。フィリピンには戦前、多くの日本人が移り住み、麻の栽培などに携わっていました。現地のフィリピン人女性と結婚し、家族を作る人も多く、最盛期の日系人コミュニティーは3万人に上ったといいます。
しかし、日米の開戦とともに、現地で暮らしていた邦人は日本軍への戦争協力を強いられます。寺岡カルロスさんは母と弟、妹を米軍の攻撃で亡くし、長兄は日本軍にスパイ容疑をかけられ銃殺、次兄はフィリピンゲリラに殺されました。
戦後、残留日本人2世にはさらなる苦難が続きます。激しい反日感情が続くなか、身を潜めて暮らすばかりか、当時のフィリピンは父親の国籍に属すると定められていたため「無国籍」として生きることになってしまったのです。
長きにわたり知られることがなかった実態でしたが、高齢となった2世たちが「日本国籍の回復」を求め、声を上げ出しました。ところが、戦火で書類が消失しているなど、親子関係などの「証拠」をそろえるのは困難な状況が続きます。
そんななか、姉と2人、小さな離島で日本国籍の回復を待ち続けるモリネさん姉妹に進展がありました。父親が沖縄からフィリピンに渡航した記録を発見。さらに本籍地が分かったのです。
親類や知人にたどりつき証言を得られれば、日本の裁判所に国籍取得を申請するうえでの大きな証拠の一つになります。番組は沖縄へと向かいました。
■助け待つ“残留日本人”3姉妹
フィリピンの首都・マニラから、プロペラ機とボートを使って5時間。住民の多くが漁業を生業とするリナパカン島。電気はほとんど通っておらず、道路も整備されていません。
「無国籍」残留日本人2世 ウエハラ・パムフィラさん(85):「あなたにも私にも日本人の血が流れています」
日本人の父とフィリピン人の母を持つウエハラ・パムフィラさん。妹のトヨコさん(79)、トミコさん(82)と島で暮らしています。
戦前フィリピンには、多くの日本人が移り住んでいました。その数、最盛期にはおよそ3万人。
ところが、日米の開戦とともに、アメリカの統治下にあったフィリピンに日本軍が侵攻。日本軍への戦争協力を強いられた在留邦人は、フィリピン人からも敵とみなされました。
パムフィラさん:「覚えているのは、日本兵が『戦争が始まったから』と言って、私の父をトラックに乗せて連れて行ったことです」
父は戻ってきませんでした。戦後も激しい反日感情は続き、ウエハラさん姉妹は小学校までしか行くことができず、貧困にあえぎました。
さらに、もう一つの大きな壁がありました。当時のフィリピンでは、“子どもは父親の国籍に属する”と法律で定められていたため、「無国籍」の残留日本人として戦後を生きることになってしまったのです。
パムフィラさん:「私たちが過ごした幼少期を、きっとあなたは想像もできないでしょう。とてもつらい日々でした。父がいたら…こんな経験はしなかった。“日本人になりたい”んじゃない。私たちは“日本人”なんです」
父親が戦死するなどし、フィリピン人の母とともに、あるいは、孤児となって多くの子どもたちが残された実態は、長きにわたり知られることはありませんでした。
■別の姉妹 父は沖縄出身も“証拠”足りず
残留日本人の日本国籍を回復する支援を行っているNPO法人で活動する猪俣さん。
訪れた先はモリネ・エスペランサさん(85)、リディアさん(80)姉妹。9年にわたり、調査を続けています。
「無国籍」残留日本人2世 リディアさん:「(Q.お父さんの名前は?)カマタ モリネ」「(Q.出身は?)オキナワ」
当時、まだ幼く、日本語を話せないモリネさん。迫害を逃れるため、日本人であることを隠し生きてきました。
リディアさん:「親戚は私に(父の)名字を名乗らせませんでした。もし日本人の子どもだと知られたら殺されるから」
フィリピン人の母から聞いた記憶を頼りに、戦時中、亡くなったという父のことを必死に伝えようとします。
リディアさん:「父は顔の一部しか見えないくらいヒゲが濃かった。父は“漁師”で船を持っていた」
姉妹の証言をもとに調査を進めると、沖縄の「盛根蒲太」という男性がフィリピンに渡ったパスポート記録が見つかりました。
しかし、日本国籍を回復するには、まだ“別の”証拠が必要だといいます。
フィリピン日系人 リーガルサポートセンター 猪俣典弘さん:「あとは“父子関係”を証明するものを準備しなくてはいけない。これがまだ時間がかかる。サポートしなくてはいけない」
エスペランサさん:「(Q.どうして日本人になりたいのですか?)父が日本人だから。日本人の血が私にも流れているから」
父親との親子関係を証明できる資料がないなか、日本国内で親類を探し出すことができないか…パスポート記録の「盛根蒲太」を追って私たちは沖縄へ向かいました。
■親族が…父の出身地で“大きな前進”
まず本籍地に書かれていた場所を訪ねましたが、荒れ地になっていました。
手掛かりを探し求めるなか、県立図書館に、沖縄の移民に関する資料がデータベース化されていることが分かりました。
「盛根蒲太」で検索してみると、最初の渡航から5年後、再びフィリピンに渡っていました。目的は「漁業のため再渡航」です。
「父は“漁師”で船を持っていた」という姉妹の証言と一致します。
さらに、盛根さんには弟がいることが分かりました。その弟もフィリピンに渡っていました。
猪俣さん:「(盛根蒲太さんの)弟の家族が生存していて、証言がもらえれば国籍回復の証拠になる」
その後、盛根蒲太さんの弟の孫が那覇市内に住んでいることが分かり、連絡を取ることができました。
「祖父は確かにフィリピンに渡っていた。大伯父の蒲太については、フィリピンに渡り戦死したという話を聞いている。リディアさんたちの映像を次の世代の親類にも見せてあげたい」
日本国籍の回復に向け、大きな前進です。
■助け待ち続ける残留日本人「“棄民”です」
調査開始から20年。これまで304人の国籍を回復することができましたが、多くは戦火で書類が焼失するなど、証拠をそろえるのが困難な状況です。
4年前、1069人と把握していた「無国籍」2世の人数は、最新の調べで493人にまで減っています。
戦争で家族5人を失った寺岡カルロスさん(92)、当時14歳でした。母、弟、妹はアメリカ軍機の空爆で死亡。2番目の兄はフィリピンゲリラに殺害され、一番上の兄は、日本軍にスパイと疑われ銃殺されました。長年、先頭に立ち、無国籍のままフィリピンで暮らす2世たちの「一括での救済」を求める活動を続けてきました。
寺岡さん:「捨てられた日本人なんです。忘れられてしまった。“棄民”です。ほとんどの人が90歳を超えています。国籍を何とかして日本人と認めてもらえれば、この人たちは全部助かる」
ウエハラさん姉妹は、小さな離島で日本国籍の回復を願います。
トミコさんが案内してくれたのは、母が眠る場所です。
トミコさん:「お母さんは私たちを残し早く旅立った。でも感謝しています。あなたが私たちを隠し守ってくれた。今、日本から来た人たちが私たちを見つけてくれたのだから」
異国の地にさまよう同胞たち。今、最後の助けを待ち続けています。
[テレ朝news] https://news.tv-asahi.co.jp/a>
コメントを書く