「まだ血の臭いが…」大越が見た“惨劇の街”ブチャの傷※動画視聴の際はご注意下さい(2023年2月8日)
ロシアによるウクライナ侵攻からまもなく1年。去年2月の侵攻の直後から、ロシア軍に占拠された町ブチャは、3月末にウクライナ軍によって解放されましたが、犠牲者は分かっているだけで458人に上っています。
今回の戦争で、今も癒えることのない傷を負った、ブチャの人々の思いを大越健介キャスターが取材しました。
首都キーウでは、今でも空爆があるものの、傷付いていない建物や場所は残っています。しかし十数キロ、車を走らすと…。
大越キャスター:「砲撃などで焼け焦げた車ですよね。一カ所に集められているんですね。真っ黒こげになった車、ぺしゃんこになった車、タイヤも散乱していますし、車とは言えないですね」
大越キャスター:「ブチャのヤブロンスカ通りに来ています。ここは解放された後の4月、多数の遺体が放置されているのが見つかったところです。この通りは“死の通り”という、とても切ない呼び名も生まれた所です」
ブチャは、ロシア軍による本格的な侵略が始まった直後に占領されました。
撮影者:「これが“ロシアの平和な世界”だ。拷問されて殺された。自転車に乗っていただけで殺された老人もいる。1カ月もこの状態だ。どうしてこんなことに…。車で逃げようとして撃たれた。これがやつらのやり方だ」
撤退するまでの1カ月間。ここで起きていたことは「地獄」以外の言葉が見つかりません。
すさまじい数の虐殺された人々。手を縛られ後ろから撃たれていたり。暴行後に切り刻まれていたり。子どもや妊婦がいたり。分かっているだけで犠牲者は458人に上ります。
遺体の多くは放置されたり、森や住宅の庭に埋められました。
一方で、教会の敷地には巨大な穴が掘られていて“ロシア軍が虐殺を隠蔽しようとした”とも言われています。
町の至る所で遺体は今も見つかっていて、犠牲者の正確な数字はまだ分かっていません。
神父はこの1年、人々の痛みと向き合ってきました。
『聖アンドリュー教会』ハラウィン神父:「聞かれたくないのは『私の気持ちがどうだったか』。毎日そのことを話して、ここで人々と接しなければなりません。自身の精神を固めて、崩れないよう振る舞っています」
大越キャスター:「軍の許可を経て、拷問施設があったとされる場所に来ました。地下施設に案内してくれるようです。ここで拷問が行われていたということなんですけれども。ここは元々、サマーキャンプが行われている子ども用の施設だったのが、一転して。あ、椅子がある。非常にかびくさい、においがします。この椅子は何だろう。何に使ったんだろう」
この施設は、夏になれば子どもたちが集まり、サマーキャンプを行う場所でした。地下室も道具や資材を保管する場所として使われていたといいます。
そんな場所も、ロシア兵が来たことで、もう前のような使い方はできません。
見つかった遺体は、銃で頭や胸を撃ち抜かれたり、殴り殺されたものでした。
大越キャスター:「(Q.これ、子ども用の椅子ですよね、足の長さが)これそうだよね。子どものための施設だから、サイズが小さいんだよね。よりによって、子ども用のキャンプ施設が、軍によって蹂躙されて。でも、これを蹂躙して、拷問したそのロシア兵も人間なんですよね。なんでそんなことが行われるのか。それが戦争ってことなのかな、やっぱり」
ブチャは、ロシア軍が奇襲をかけたホストメリ空港に隣接している町でもあります。
そのせいで周辺は無差別に激しい爆撃も受けました。
ナタリア・マズニチェンコさん(58)夫婦もその犠牲者です。
ナタリアさん:「ここにミサイルが当たりました。どうしてって、ずっと考えています」
ナタリアさんの夫は、この時の空爆で亡くなりました。
ナタリアさん:「(Q.おいくつだったんですか?)60歳です」
大越キャスター:「私とほぼ同い年です」
空爆は地下室に逃げようとした、その瞬間のことでした。
ナタリアさん:「私は先に地下室に入りましたが、夫にミサイルが当たって背骨が折れました。(Q.どの辺で起きましたか?)ここで夫が倒れました。体を引きずって地下室に入りました。そして、亡くなりました。(Q.夫の遺体はここにありましたか?)はい、血の痕跡です。ここまで夫を引きずって、地下室に入りました。夫・家・お金すべてを失いました。どうやって生きていけば…。共に暮らして39年。いつだって一緒でした。料理して、家を建てました。いつだって2人でした。ずっとどこでも一緒でした。彼の死を受け入れられない。本当に良い人でした。彼にすごく愛されていました。頑張ってはいますが、まだ1年です。彼に会いたい。まだ血のにおいが残っているんです」
【侵略の傷跡“名もなき墓標”】
◆ブチャで取材する大越キャスター
ブチャにある墓地からお伝えしています。きょうも新たに3人の遺体がこの墓地に運ばれてきました。男性2人、女性1人だということです。
女性は30~40代、男性の年齢は分からないということでした。
先ほど、棺が埋葬されて、土を盛って十字架が立てられました。
寒さで土が凍っているために、土を固める作業も困難を極めているように見えます。
例えば廃墟の隅にある遺体が見つけられるなど、占拠されてから1年近く経った今も、日常的に続いているということです。
ここには氏名不詳の方の墓が70ほどあります。
土の上にウクライナ正教にのっとった十字架が立てられ、身元が確認できていない人の墓には、記号が付けられています。
身元を確認する人も亡くなっているのか、遠くに避難しているのか、事情はそれぞれですが、こうして墓標を記号で表記せざるを得ないことが、戦争のむごさを語っているように思います。
(Q.夫を亡くされたナタリアさんの「まだ1年なんです」という言葉が重く響きました)
私たちは、ロシアの侵攻から1年という節目を前に、ここウクライナに取材に来ています。
しかし、戦争で傷付いた人たちにとって、1年という数字は、あまり意味を持たないのかもしれません。
ナタリアさんは、夫がどのように息絶えたのか、そして、手遅れとなった夫をどのように抱きしめ続けたのかを、まるで今そこで起きていることであるかのように、私たちに語っていました。
ナタリアさんは、その時のショックで、今もカウンセリングが欠かせないといいます。
つらいことを思い出させて申し訳ありませんと、私たちがインタビューを遮ろうとしても、伝えたい気持ちが強いのか、ナタリアさんの口からは、自ら経験した悲劇を語る言葉が、次から次へとあふれ出していました。
(Q.解放された後、ブチャに変化はあったのでしょうか?)
壊れた家がそのままだったり、焼き焦げた車が集められて野ざらしになっていたりと、傷跡は生々しいままです。
ただ、街を歩いてみると、修復するための建築資材があちこちに置かれているのを見かけます。
また、ブチャは、キーウまで車で30分と、首都への通勤圏内で、朝はバス停に列を作っている様子も見受けられました。
そして何より、雪の上で遊ぶ子どもたちの歓声も聞かれました。
しかし、侵攻以来、住民の声に耳を傾けてきた教会の神父は「戦争前のブチャに、すべて戻ることは
無理というものでしょう」と話していました。
あまりにも深い傷は、決して上書きできない過去として、この街に残ります。
そして、ロシアとの戦争は終わりが見えません。
ブチャの人たちは、つらい記憶を刻み付けたまま、今を生きています。
[テレ朝news] https://news.tv-asahi.co.jp/a>
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