あの時の恩返しを…阪神淡路の経験いかし“ともに寄り添う”能登の被災地に寄せる思い【報道ステーション】(2024年1月17日)
今年、神戸の街に浮かび上がったのは「ともに」という3文字でした。6434人が亡くなった阪神淡路大震災から今月17日で29年です。被災の真っただ中にある能登に寄り添う思いが込められています。
■阪神淡路の経験いかし“寄り添う”
能登半島の被災地は17日目。今だから、できることがあります。
避難所で暮らす住民
「じっとしてと言われてつらかった」
ボランティア
「みんな動いて下さい。できることをやってもらえると、みんなが幸せ」
足湯のボランティアは29年前、阪神淡路大震災で生まれた活動だといいます。
被災者支援NPO『レスキューストックヤード』浦野愛さん
「あの時も、寒さに震えながら、1日1日を懸命に生きてきた方が多くいました。頑張り続けて、心も固くなって、困ったことはないですかと聞いても『大丈夫』とおっしゃるけど、被災された方々が必要なことは何か、ちゃんとお話を聞く」
あの時の教訓をいかすため、兵庫県からは、災害医療チームが駆け付けています。
JMAT兵庫 越智深医師
「フォローは大丈夫ですか。コロナの方は」
チームが任されたのは、避難所の医療ニーズを取りまとめる役目です。
JMAT兵庫 越智深医師
「神戸市、兵庫県は、全国から助けていただいたので、兵庫県JMATは率先して支援やできることを」
穴水町は、約1700人の被災者が40カ所の避難所に分かれていて、1日でまわるのは不可能です。どの避難所に医師らを派遣するか、報告をもとに判断します。
JMAT兵庫 北垣幸央医師
「地理的なことが、ここに来て分かったが(避難所が)点在して遠い。1カ所行って次に行くのが、すごく時間がかかる」
兵庫県チームを統括し、阪神淡路大震災を経験した医師が今、気にかけていること…。
JMAT兵庫 北垣幸央医師
「(阪神淡路大震災で)自分の家族を顧みず、目の前の被災者を助ける方がいたので、それは非常に心苦しい。穴水でも多数お見かけしますので、そういう方の力になれればと」
輪島朝市の火災現場には、阪神淡路大震災でも救助活動にあたった消防職員の姿が…。
阪神淡路大震災で救助活動した 神戸市消防局 高村浩二さん
「あの時も、がれきの下敷きになって、火災が広がっていて、下敷きになったまま助けられなかった状況もあって、一刻も早く見つけ出して、家族の元に帰っていただきたい」
■死者232人“朝市火災”の犠牲者も
今回の地震で亡くなった方は、17日午後2時時点で232人。16日から増えた10人は全員、輪島朝市の火災が原因とみられます。
1週間前、孤立集落には3000人以上が取り残されていましたが、7地区56人にまで減りました。孤立の解消は着実に進んでいます。
■異例の“集団避難”生活始まる
輪島市では、中学生の集団避難が始まりました。子どもたちは前向きです。
集団避難する中学3年 坂口こころさん
「きょうはワクワクして、朝起きました。友達と会いたかったから」
父
「病気になるな」
母
「賢くなってこい」
輪島市の中学生約250人は、親元を離れて暮らします。避難先の白山市では、授業する態勢が整ってないため、当面は自習です。家族と離れ離れの生活は、2カ月程度を想定しています。
石川県は新たに、遺族から了承を得られた16人の氏名や年齢などを発表しました。能登町では、13歳の中学生が家屋の倒壊で亡くなっています。
■阪神淡路大震災から29年
あの日から、29年が経った神戸では、各地で鎮魂の祈りが捧げられました。手が付けられないほどの炎が街をのみ込んだ、阪神淡路大震災。建物の倒壊やライフラインの寸断など、未曾有の被害をもたらしました。
参加者の中には、石川県の避難所で支援を受けたという、輪島市の男性も。
輪島市から来た人
「4~5カ所、避難所あるんですけど、何回もまわって炊き出しして頂いて。震災に遭って29年も、こういったことを続けられるのには何があるのか。自分の目で見たくて来ました。最初に感じたのは、若い人がいるのにびっくりした。根底に温かい血が流れているなと、正直言って感心しました」
大阪で被災した人
「雪も降って寒い中で、ものすごく大変だと思うけど、頑張って生きのびて、復活してもらいたいです。僕らも阪神の時に石川の人にもお世話になったし、恩返しせなあかんなと思いますね」
■家族亡くした男性 伝えたい思い
藤本竜也さん(42)は11年ほど前から、神戸市兵庫区で整骨院を営んでいます。被災した当時は、中学1年生でした。街を歩くと、あの時の景色が蘇ります。
震災で父と弟を亡くした、藤本竜也さん
「この道路がガッて陥没していて、すごいことになっていた」
地震では、隣の部屋で寝ていた父の政明さんと、弟の弘晃さんが犠牲になりました。当時、家があった場所は、別の建物になっていました。
震災で父と弟を亡くした、藤本竜也さん
「裸足で逃げてきて、大人の方を呼んだんです。建物が無事で動ける方が(がれきから)弟を出してくれて。その時にはもう、たぶん死んでたんだと思います。(弟とは)ずっと一緒にいたんで、その寂しさはすごくありました」
藤本さんが今、一番伝えたいこと…。
震災で父と弟を亡くした、藤本竜也さん
「同じ環境下にいる友達に『頑張れよ』と言われてうれしかった。一人じゃないというか、応援してくれる人がいるんだと。(能登の子どもたちは)今はしんどい環境かなって思ってしまう。(あえて)自分が楽しいなって思うことを優先してほしい。それすることによって、自分にも力わいてくる思う」
そして午後4時10分、30年目を迎えた神戸から能登半島へ。街は2度目の沈黙に包まれました。
[テレ朝news] https://news.tv-asahi.co.jp/a>
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