原爆投下“前後”にも住宅が存在 広島平和公園と原爆ドームを写真でたどる(2023年8月4日)
広島は8月6日に78年目となる「原爆の日」を迎えます。平和への祈りの象徴、原爆ドームと広島平和公園はかつてどのような場所だったのでしょうか。
今年行われたG7広島サミット。各国の首脳が平和公園で原爆慰霊碑に献花しました。アーチ状の慰霊碑から真っすぐ先に見える原爆ドーム。
1945年の原爆投下前後、そして戦後この平和公園がある場所は、どのように変化したのでしょうか。
平和公園の上空です。84年前は。
太平洋戦争開戦前の1939年の航空写真。撮影したのは旧日本軍です。ここには商店や旅館など広島市内で有数の繁華街や人々が暮らす家がありました。
6年後の1945年。原爆が投下される12日前の航空写真。当時、日本の各地で空襲を行っていたアメリカ軍が撮影した写真から、街並みが鮮明に確認できます。
原爆投下前の広島は活気に満ちた街でした。
そして1945年8月6日。街並みは一変します。
写真は原爆投下の5日後にアメリカ軍が撮影したものです。現在の平和公園に位置する建物は、ほとんどが焼失しました。
大きな被害を受けつつも、ドーム部分の鉄骨など、一部が倒壊せずに残ったのが現在の原爆ドームです。元は広島県産業奨励館と呼ばれ、県内の物産販売や博覧会などが行われていました。
原爆投下からおよそ4年後のパノラマ写真です。左に見えるのが原爆ドームです。現在の平和公園の広場がある場所にはすでに多くの家が建ち並んでいます。人々が復興に向け再び生活を始めている様子が確認できます。
そんななか、この爆心地周辺を、恒久平和を記念する公園とすることが計画されます。住民の移転問題など様々な困難に直面するなかで開始された平和公園の建設計画。広島市が設計案を募集した要綱には、原爆ドームについて「修理のうえ存置する予定」と記載され、原爆ドームを保存する意向が確認できます。
このコンペで、一等の入選をしたのは、世界的建築家として知られる丹下健三です。当時は原爆ドームの解体を望む声もあったといいますが、原爆ドームを起点として直線上に慰霊碑と原爆資料館を配置することで原爆ドームを象徴とする設計にしました。
健三の長男で丹下都市建築設計の丹下憲孝会長が当時の父の思いを語りました。
丹下都市建築設計 丹下憲孝会長:「当時の他のコンペ(設計競技)案は全く違う構成でした。そんななかで100メートル道路に対して垂直の祈りの軸を造るというのが父の考え方で、確かに原爆ドームを壊すというお話、当時の方々からすると悲惨な記憶を消したいということで壊すという案があったようですが、父は平和のこんなことが二度とあってはいけない、忘れてはいけない歴史の1ページで、平和の逆に象徴として残すべきだということで建物群(資料館)、慰霊碑、その間から見える原爆ドーム、これを残す案をつくらせていただいたようです」
平和公園完成から11年が経過した1966年。広島市議会の決議で原爆ドームの保存が正式に決定。その後保存工事が行われました。1996年にはユネスコの世界文化遺産に登録され、公園と共に平和を求める象徴として存在し続けています。
原爆投下によって奪われた日常。そこから復興を果たした広島。2023年の今年、78年目の夏を迎えました。
広島平和公園では今年も8月6日に平和記念式典が行われます。コロナ禍で規模を縮小して行われていた式典は4年ぶりに例年並みの規模での開催となるということです。恒久平和の実現に向け広島が平和の祈りに包まれる一日となります。
[テレ朝news] https://news.tv-asahi.co.jp/a>
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