「青木さん中心に背中押した」森氏後継“密室”の裏側“参院のドン”青木幹雄氏が死去(2023年6月13日)
自民党の参院議員会長や官房長官などを務め、政界引退後も長らく影響力を保った青木幹雄氏が、老衰のため、亡くなりました。89歳でした。
元自民党幹事長・古賀誠氏 :「(引退後も影響が大きかった)大きかったね。“ドン”という言い方がいいのかは別ですけど」
元金融担当大臣・亀井静香氏:「青木先生は“政界のドン”。参議院だけじゃなくて、すごい方でした」
小渕政権、森政権、そして小泉政権。時の権力者の傍には常に、その姿がありました。
青木氏は、同じ島根県出身で大学の先輩・竹下登氏の秘書として、政界の道を歩み始めます。県議を経て、1986年、参議院議員に。派閥政治、権力闘争のなかで、存在感を増していきます。
1992年、東京佐川急便事件。竹下派会長の金丸信氏が辞職すると、派閥内で後継争いが勃発します。小沢一郎氏と対立した青木氏は、小渕恵三氏を支持。参院票をまとめ上げ、小渕氏を派閥会長へと押し上げます。
そして、小渕政権が誕生すると、翌年、参院議員にして初入閣でありながら、官房長官に就任。しかし、思いもよらぬ事態が起きます。
2000年、緊急入院した小渕総理。青木氏は、病床の小渕氏が、自分を臨時代理に指名したと説明。しかし、批判が出しました。
青木幹雄官房長官(当時):「(Q.検査の結果によっては代行をと)はい。(Q.検査の結果が出たのか)出ていませんが、集中治療室に入ったので、総理の言葉を私が受け、判断した。(Q.青木さんの一存か)私の一存で判断した」
さらに、後継の総裁を森喜朗氏にすることを、党幹部5人の会談で決めます。“密室で総理を選んだ”として青木氏は、厳しい批判を浴びます。
当時、会談に同席した亀井静香氏が語りました。
元金融担当大臣・亀井静香氏:「森さんは、ああいうお人柄です。自分が前に出ていこうとされない。誰かが背中を押さなきゃいかん。青木さんを中心にして、背中をばんと押した。青木さんが、その場の雰囲気でうまくまとめて。(Q.5人組と密室で決まったのではないかと)そんなの悪口ですよ。政治でね、談合で決まらないことはないよ」
森政権の後、誕生した小泉政権は、派閥政治の打破を掲げます。しかし、2003年の総裁選、青木氏が身を置く橋本派が“小泉おろし”に動くなかで、青木氏は小泉氏の再選を支持。長期政権を生むことになりました。
2010年、政界を引退。その後も、歴代の総理が青木氏にアドバイスを求める様子は、事務所のあるビルの名から“砂防詣”と呼ばれました。
自民党・小渕優子組織運動本部長:「『頑張らなければいかんわね』『なんとかだわね』というのが青木先生のいつもの口調でありまして。父亡きあと、青木先生は私にとって政治の親代わりでもありましたし、いいときも苦しいときも、あたたかくご指導いただいた」
森喜朗元総理大臣:「青木さんは、岸田さんのことを一番心配していた。『政権がうまくいくように』と、いつも青木さんから話があった。青木さんは、父や兄貴のような感じで、心がちぎれるくらい残念な思いです。心からご冥福をお祈りいたします」
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