「尖閣諸島」「ディーゼル」「首都移転」時に物議・・・“石原節”を振り返る(2022年2月1日)

「尖閣諸島」「ディーゼル」「首都移転」時に物議・・・“石原節”を振り返る(2022年2月1日)

「尖閣諸島」「ディーゼル」「首都移転」時に物議・・・“石原節”を振り返る(2022年2月1日)

作家、そして、政治家の石原慎太郎さんが1日、亡くなりました。89歳でした。“石原節”とも呼ばれた発言を振り返ります。

石原氏は、1999年の都知事選に無所属で立候補しました。出馬会見でこう述べました。
石原慎太郎氏(当時66):「実は、私も非常に迷いに迷いに迷ってきたわけです。東京に限らず、このごろの日本の在り方、眺めてみますと、この国は下手したら沈むんじゃないかという気がしないでもない。国の責任ですよ。このままいったら、国が沈むと一緒に東京も沈んじゃう。やっぱり東京だけではなく、日本も持ちあげないといけない。東京が思い切ったシステムを構えて、国もそれを認めて、ある権限を移譲し、東京にやりたいことをやらせる。やってみてくれ、国も支えようということの協力ができれば、私は東京は再生するし、非常に活力を持つと思うし、同時にそれがやはり日本の浮上の大きなテコになると思う」

初当選し、ここから都知事として辣腕を振るいました。その発言は、何度も物議を醸してきました。

2012年4月、アメリカ・ワシントンで行った講演で、中国が領有権を主張している沖縄の尖閣諸島の購入計画を明らかにしました。
石原慎太郎氏(当時79):「東京都は、尖閣諸島を買います。買うことにしました。多分、私が留守の間に実務者が決めているでしょう。本当は国が買い上げたらいいけどね。外務省がビクビクしてやがる。あそこに最初に灯台作ったのは僕ですよ。東京が尖閣諸島を守ります。日本の政府が嫌がるかどうかは・・・どこの国が嫌がろうと、日本人が日本の国土を守るため島を取得するのは、何か文句ありますか。まさか東京が尖閣諸島買うってことで、アメリカが反対するわけないよな」

また、2002年、ディーゼル車の排出する有害物質の規制に関する会見では、黒い粒子が入ったペットボトルを振り回すパフォーマンスを見せました。
石原慎太郎氏(当時70):「正当な軽油でもなお、外国に比べて10倍以上高い硫黄の濃度を持つ軽油。まして不正軽油は、もっとひどいことになるけれども、それを使って走るだけで、東京の都内だけで、ディーゼル車が吐き出す、この粉じんは12万本。1日これ12万本ですよ。固まっているけど、この粉じんが飛んでいるんだ。これを総理大臣も生まれたての赤ん坊もみんな吸っているんだ、東京で。こんなものを国が認めずにほったらかしで済むことじゃないでしょう」

ディーゼル車こそが大気汚染の元凶だとして、『ディーゼル車NO作戦』を実施。排ガス規制をしていないディーゼル車は、都内を走れないようにしました。運輸業界は猛反発しましたが、石原氏は「東京の空をきれいにする」と主張し、最後まで譲りませんでした。

さらに、2001年、国が進めていた首都機能の移転問題。国会に参考人として呼ばれた石原氏は、こう述べました。
石原慎太郎氏(当時69):「政治家にみんななびいていて、あの時に、とりあえず、どこかにいつか首都を移すという、こんなバカな決議をした国会は世界中にない。バカげているから、バカ。あきれたよ。人権じゃないよ。国民はこれ眺めているんだから」

数々の場面で“もの言う都知事”として、発言してきた石原氏。次の都知事選にも圧勝で再選を果たしました。
石原慎太郎氏(当時70):「今まで以上に過激にやります。国を場合によっては、小突きまわすくらいはできるんじゃないか。東京ならではのことができると思いますし、日本の古い政治のスキームを変えていく。それをまた都民が、東京から日本を変えろと期待してくれている。これからも存分にやらせてもらう」

作家らしく、言葉で切り込む一方で、涙を見せる場面もありました。東日本大震災や福島第一原発の事故で、現地に向かった東京消防庁のハイパーレスキュー隊に贈った言葉です。
石原慎太郎氏(当時78):「皆さん、本当にありがとうございました。おかげでこの国を救うきっかけが見つかりました。人間同士の連帯はありがたい、人間って捨てたもんじゃない。日本人は、まだまだ捨てたもんじゃない。そういう示しをしてくれた。本当に本当にありがたいし、これを踏まえて、これにすがって、この国を立て直らせなければいかんと思います。これ以上言うことはない。本当に本当に皆さんありがとうございました」

震災対応では、ガレキの受け入れをいち早く表明しました。
石原慎太郎氏(当時79):「力あるところが手伝わなかったらしょうがないじゃないですか。みんな自分のことしか考えないから、日本人がダメになった証拠の一つだよ。何も放射能出てるものガンガン出てるものを持ってくるわけじゃないんだから、線量を測って、何でもないから持ってくるんだからね。東京だってバカじゃありませんよ。『黙れ』って言えばいい」

半世紀近くに渡る政治家人生。国政では、1989年、自民党総裁選に立候補するも48票で最下位に終わりました。しかし、都知事としては、4期14年もの間、務め上げ、石原節で、強力なリーダーシップを発揮、辣腕を振るってきました。

石原氏の自民党時代からの盟友・亀井静香氏(85)が1日、石原氏の自宅を訪れました。最後の別れを告げた後、話を聞くことができました。

元金融担当大臣・亀井静香氏:良い顔して死んでたな。生きてるみたいだったね。「バカ野郎」って言ったよ。彼とは本当に心を許し合った友だちだったから。

(Q.政治家としての石原氏をどういう風に見ていましたか)
元金融担当大臣・亀井静香氏:政治家っていうのは彼の人生にとっては、気持ちのうえでの延長線上だったんだよ。彼は太陽の季節なんて書いたけども文人だったんだよ。その一部が政治家としての姿であってね。彼はまっしぐら、立ち止まってない。それが彼らしいところ。良い所のお坊ちゃんだけどね、 まさに『太陽の季節』。

(Q.石原氏の経歴や生い立ちを“まぶしいな”と思ったことはありますか)
元金融担当大臣・亀井静香氏:全然。俺は“湘南ボーイ”なんてバカにしていたから。なんでまぶしいんだよ。

(Q.石原氏は文化人として天寿を全うしたと思いますか)
元金融担当大臣・亀井静香氏:してないだろうな。彼は自分の描いている日本の中で、もっと暴れまくりたかっただろうな。彼の考えているような日本にできなかったと。慚愧(ざんぎ)に堪えない思いで、あの世に行っただろうな。
[テレ朝news] https://news.tv-asahi.co.jp/a>

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