皇后 雅子さま 誕生から浩宮さま(当時)との出逢い そして結婚を決意されるまで(1963年~1993年)【映像記録 news archive】

皇后 雅子さま 誕生から浩宮さま(当時)との出逢い そして結婚を決意されるまで(1963年~1993年)【映像記録 news archive】

皇后 雅子さま 誕生から浩宮さま(当時)との出逢い そして結婚を決意されるまで(1963年~1993年)【映像記録 news archive】

2022年12月9日、59歳の誕生日をお迎えになる皇后・雅子さま。4拍子揃った「スーパーレディ」を開花させたのは、ご自身が努力を怠らずに精進されたことでした。その生い立ちと天皇陛下との出会い、そしてご結婚を決意されるまでをたどります。

1993年6月9日、天皇皇后両陛下に結婚の報告をする朝見の儀を終えて、皇居宮殿から出てこられた皇太子さまと雅子さま、現在の天皇皇后両陛下です。

皇后雅子さまは、外務省に勤める小和田恒さんと優美子さんの長女として、1963年12月9日、東京の虎の門病院で誕生されました。

■モスクワ、ニューヨークでの幼少期と「田園調布雙葉」時代

翌年8月、父・恒さんの転勤に伴い雅子さまのモスクワでの生活が始まりましたが、3歳の時にすでにロシア語はペラペラで、皇太子時代の天皇陛下がいつもおっしゃっていた理想のお妃像のひとつ「語学のできる人」の要素は、早くもこのころから培われていたことになります。
68年には、一家そろってニューヨークに移り、雅子さまは天皇陛下と共通の趣味となったスキーを覚えます。

日本に戻ったのは1971年で、お母さんの母校、東京・田園調布雙葉小学校に編入、「オワ」というあだ名をつけられました。
小学6年生の時には生物クラブに入り、卒業文集に「将来は獣医さんになる」と夢を語るなど、生き物に対する強い思いが育まれました。
中学では野球に夢中で、放課後は読売ジャイアンツの練習を見るため、学校からすぐの多摩川グラウンドに通われたほどです。
選手では高田繁選手と大洋ホエールズの長崎慶一選手のファンだったといいます。
そのうち見るだけでは飽き足らなくなって、友だちとソフトボール部を結成、猛練習の末ついに世田谷区の大会で優勝しました。

■再びアメリカへ ハーバード大に進学

そんな楽しい田園調布雙葉とも高校1年で別れを告げ、雅子さまは再びアメリカへ向かい、ボストン郊外のベルモント高校に入学されました。
仲の良かった友人によると、雅子さまもその友人も、アメリカ人に囲まれた中でとにかくよく勉強したということです。
1981年には、名門ハーバード大学に進学、外交官を目指して国際経済の勉強に集中する一方で、週末にはダンスパーティーに出かけられるなど、息抜きも上手だったようです。

そして86年春に帰国。外交官試験に合格します。

■浩宮さまとの出会い 「外交官としてやっていきたい」

その年の10月、東宮御所で開かれたエレナ・スペイン王女を歓迎する催しで、雅子さまは、浩宮と呼ばれていた天皇陛下と出会われます。
お二人はその席ではほとんど言葉を交わされませんでしたが、陛下は非常に強い印象を受けたといいます。
翌87年、雅子さまは外務省に入省し、外交官の道を歩みだされます。
そのころ高円宮さまが自宅で開かれた夕食会で浩宮さま、今の天皇陛下とお会いになったほか、二度、東宮御所を訪ねています。

このころ、マスコミは雅子さまを「お妃候補」としてこぞって報道しましたが、「外交官としてやっていきたい」という雅子さまの意向などから、話は立ち消えとなり、雅子さまは88年7月、留学のためイギリスへと旅立ちました。
イギリスでは陛下も通ったオックスフォード大学に留学、2年にわたって国際関係論を学ばれて、外交官としてのキャリアに磨きをかけました。
一方でイギリス人をたくさん呼ぶようなパーティーのときには、得意の日本料理の腕を奮って皆をもてなしたといいます。

1990年に外務省に戻ってからは日米貿易摩擦問題に取り組み、当時来日したアメリカのベーカー国務長官やヒルズ通商代表の通訳を務めました。
その表情は自信に溢れ、まさにスーパーレディの名にふさわしい雅子さまですが、皇太子時代の陛下がいつも口にしていた理想のお妃像「明るく健康的」なのは言うまでもなく、気さくな人柄はいつも大ぜいの友人を集めていました。

皇太子さま(30歳の誕生日会見):理想の女性に会えたかどうかという話ですけども、これもまた前の答と同じかもしれませんけれども、会えたかもしれないし会えなかったかもしれないと申し上げておきます。

■プロポーズから“決意”まで

一方で、皇太子さま、今の天皇陛下の雅子さまへの想いは、どんなに年月が経っても、少しも変わることがなかったといいます。
その強い想いを受けて、92年5月、宮内庁が動き出しました。
このころの雅子さまは外務省の仕事でたいへん多忙な日々を送っていましたが、8月16日、待ちに待った4年10か月ぶりの再会が実現しました。
そして、当時の天皇皇后両陛下の山形国体出席に同行して、宮内庁詰めの記者がいない間の10月3日、千葉県市川市の新浜鴨場で、侍従長と運転手が同行しただけという異例のお忍びデートで、正式に結婚を申し込まれました。

ところが、天皇皇后両陛下が中国訪問へ出発される直前、小和田家から「住む世界が違いすぎる。やっていける自信がない」と断りの返事がありました。

しかし、皇室サイドからのアプローチとともに、皇太子さま(今の天皇陛下)は諦めず電話攻勢を始めました。
そして、1992年12月12日、雅子さまが東宮御所を訪れます。
部屋から出てきた皇太子さま(今の天皇陛下)はうれしそうな顔で「いい感触でした」と側近に話されました。
一方の雅子さまもこの日訪れた書道展で、溢れるような笑顔を多くの人に目撃されています。

小和田家から結婚の承諾が、正式に伝えられたのは、それから数日後のことです。
そして、

報道陣:あの、これから皇太子さまに会われるわけですが、今のお気持ちはいかがですか?
雅子さま:久しぶりにお目にかかる機会なので、色々お話してこようとそう思っています。
報道陣:どうもありがとうございました。
[テレ朝news] https://news.tv-asahi.co.jp/a>

ANNnewsCHカテゴリの最新記事