ザ・国鉄「汐留駅」頂点の駅の賑わい(1970) 最後の夜の汽笛吹鳴(1987)(2022年11月4日)

ザ・国鉄「汐留駅」頂点の駅の賑わい(1970) 最後の夜の汽笛吹鳴(1987)(2022年11月4日)

ザ・国鉄「汐留駅」頂点の駅の賑わい(1970) 最後の夜の汽笛吹鳴(1987)(2022年11月4日)

東京港、日の出埠頭沖です。
1970年、昭和45年秋の撮影です。
左舷側にボートをおろし、後部に大きく口を開けた船が見えます。
周りをぐるりと回ると右舷に搭載していたボートだったことが見て取れます。
ヘリコプターはそのまま飛んで、今、レインボーブリッジがあるほうを見ます。
そこからカメラを右に振って、日の出埠頭、竹芝埠頭です。
東京港の歴史は以外に浅く、太平洋戦争直前の1941年5月の開港ですが、これらの埠頭は東京港開港より古く、1934年までには完成していました。

画面奥に、完成して半年の世界貿易センタービル、そして東京タワーが見えます。
汐留川の水門。
排水機場を越えて浜離宮庭園です。
左に客船ターミナル、奥に汐留貨物駅、写っていませんが右には築地市場と、ややこしい場所にある日本庭園です。
もっとも浜離宮のほうが先にあったわけですが。

首都高速1号線を越えて、その汐留貨物駅です。
1872年、明治5年の日本の鉄道創業の地、最初の新橋駅があった場所です。
42年後の大正3年、東京駅ができたことから、貨物駅に変わり、名前も汐留駅となります。
鉄道線路、プラットフォーム、自動車の入る場所が交互に並んでいます。フォークリフトが忙しく働いています。

画面左に築地市場へ伸びる線路も見えます。下から、日本の鉄道の起点であることを示すゼロマイル標識の一画が見えました。
積まれたコンテナ、屋根のある貨物車。
荷物車。
コンテナ用の台車。さまざまな種類の貨車が見えます。
フォークリフトとそれより小さいピックアップトラック。

もともとの新橋駅は、駅設備のほかにも機関車や客車の車庫、燃料の保管、修理工場などを備えた「一大鉄道基地」だったといいます。
汐留駅が貨物専用の駅として生まれ変わった背景には、この広さが利用できたこともありました。
新幹線の線路を挟むように、右手前が東海道線をはじめとした旅客線、左奥が汐留駅の構内です。
運送会社のなつかしいオブジェ。
このあたり、今、イタリア街と呼ばれている場所には運送会社や国鉄の出先機関など、鉄道関連の施設が並んでいました。
1945年3月10日の東京大空襲で構内の施設が焼け落ちるなど、大きな被害を受けた汐留駅でしたが、戦後は復興・改良が進められ、1959年にはコンテナ輸送も始まりました。
この映像は、日本の鉄道の貨物輸送がピークを迎えていた時期にあたります。
しかし、この時間、貨物列車の出入りはほとんど見られません。

手前を国電がすれ違います。山手線(やまてせん)の外回り電車についていきます。
浜松町駅に近づいて、世界貿易センタービルの陰に入ります。
モノレールの駅の屋根。浜松町駅に止まります。

線路の向こうは芝離宮庭園です。
ここにも貨物列車が止まっています。

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1987年、昭和62年3月31日、国鉄最後の夜の汐留駅です。

司会:ただいまより「さようなら国鉄」ならびに「JRグループ出発」の汽笛吹鳴式を挙行いたします。

杉浦喬也国鉄総裁のあいさつです。

杉浦総裁:国鉄はけっして滅びるものではありません。鉄道は永遠に生きております。鉄道は新しい民間鉄道と相なりまして

つづいて橋本龍太郎運輸大臣です。

橋本大臣:あと15分で国有鉄道の歴史が終わります。

橋本大臣:どうぞその国有鉄道に対して注いでいただいた愛惜の情を、これから生まれるJR各鉄道株式会社に対して、よりいっそう強いものとして注いでいただきますよう、心からお願い申し上げ、ごあいさつに代えます。
ありがとうございました。

記者リポート:まもなく杉浦国鉄総裁の手によってSLの汽笛が鳴らされます。
遠い昔、汽笛の一声で輝かしい歴史の1ページを記した日本国有鉄道は、今その汽笛とともに消え去ろうとしています。
去り行く国鉄を惜しみ、新生JRの出発を告げる歴史的な一瞬です。
[テレ朝news] https://news.tv-asahi.co.jp/a>

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