「今日で敗戦とも知らず…」玉音放送直前に“知られざる戦い”出撃した兵士の手記(2023年8月15日)
1945年8月15日の正午、日本の敗戦が伝えられた『玉音放送』。しかし、その終戦の日にも戦闘が起きていました。
玉音放送の約8時間前。千葉県房総半島沖には、連合国の艦隊が迫っていました。アメリカ海軍第三艦隊、航空母艦を何隻も保有する巨大艦隊でした。日本軍もすぐ迎撃に向かいます。
零戦の飛行士だった阿部三郎さん。8月15日の戦闘を手記に残しています。
阿部三郎中尉の手記より:『当方は、今日で敗戦と知らず、今日から本格的な反攻を始める初日と張り切って出撃した』
玉音放送の約7時間前。阿部さんの部隊は、千葉の茂原航空基地から出撃。連合国103機に対し、わずか十数機で立ち向かいました。
阿部三郎さんの手記より:『たちまち乱戦となった。至近距離まで近づいた。敵は気配を察したのか、一瞬筆者と視線が合った。彼の表情に絶望が走った。発射レバーを引いた途端、彼の頭が半分ほど吹き飛んだ。風防が真っ赤になった』
阿部さんの零戦も被弾し、都内を流れる江戸川に不時着しました。
阿部三郎さんの手記より:『時計を見ると朝の六時だった。おかしい。感覚ではもう昼はとうに過ぎているはずだ。(中略)それほど緊張していたのだろう』
そのわずか15分後。連合国は、日本の降伏を知り、前線の部隊に攻撃停止命令を出します。阿部さんは、基地に戻ると、黒板に書かれた戦闘記録で、5人の仲間が戦死したことを知りました。
戦いを終えた阿部さんの様子を妹の百合子さんは、鮮明に覚えていました。
阿部三郎さんの妹・百合子さん(90):「兄が帰って来たときは、鷹のような目をしていました。人間の目じゃなかった。人殺しの目ですね。軍刀を持って、6畳の部屋に正座したまま、1週間くらい口をきかなかった。あのとき、死のうと思ったらしい」
阿部三郎さんの手記より:『自分が生き残ったのに、死んでいった戦友に対する後ろめたさと、それと相反する、もう死ななくていいんだという密かな解放感など、局外者には理解してもらえない感情が胸の底から込み上げてきた』
しかし、日本軍の攻撃は、まだ終わっていませんでした。“最後の特攻”を行ったのです。
玉音放送の2時間前。千葉と茨城の基地から10機以上が出撃。18名の特攻隊員が、この日に亡くなりました。最後の1機が飛び立った30分後、日本は終戦を迎えます。
8月15日に戦った阿部三郎さんは、玉音放送で敗戦を知りました。
戦後、かつての上官が口にした言葉を手記に残しています。
阿部三郎中尉の手記より(上官の言葉):『もし、敗戦を知っていたら、出撃はさせなかった。そうすれば、何人ものパイロットを殺さずにすんだ』
日本軍が正式に停戦命令を出したのは翌日、8月16日のことでした。
【冒頭映像出典:TheLastBomb-Identifier:342-SFP-193】
“終戦の日の象徴”でもある玉音放送は、天皇があくまで国民に敗戦を知らせたもので、“停戦命令”ではありません。ただ、停戦命令が出たのも、日本はアメリカに比べ時間がかかっていました。
“日本の降伏”から日米両国の海軍に「停戦命令が出されるまで」を確認します。まず、日本が降伏することを連合国に伝えたのは、玉音放送の前日、8月14日午後11時。これを受け、アメリカが房総沖にいた第三艦隊に停戦命令を下したのが15日午前6時15分。一方、日本は翌日16日になってからです。
なぜ、日本軍は遅れたのか。太平洋戦争の日本軍などを研究する埼玉大学・一ノ瀬俊也教授は「降伏を伝えて、現場の各部隊に反乱が起き、降伏ができなくなることを大本営が警戒し、“段階的に停戦命令を出していった”と考えられる」といいます。
大本営が、海軍の司令部に出した指令を見てみます。16日の指令では『即時戦闘行動を停止すべし』と書かれていますが、『停戦交渉が成立するまでの間は、自衛目的の戦闘は妨げない』としていて、条件付きの停戦命令でした。
次に指令が出されたのは19日で、『一切の戦闘行動停止』と書かれていますが、その期限は『22日午前0時にする』としています。しかも『現在の中国方面は追って定める』と例外を認めています。
一ノ瀬教授は「敗戦国は、降伏を受け入れることよりも、実は味方の強硬派の反発を抑える方が難しいという側面もある」と、当時の状況を分析しています。
[テレ朝news] https://news.tv-asahi.co.jp/a>
コメントを書く