「ニドト・ナイ・ヨウニ」日系人強制収容から80年 小さな島の思い【現場から、】
日系人が強制収容所に送られた日米開戦後のアメリカで、差別に基づいた措置は「間違っている」と当時、批判していたアメリカの人たちがいました。
アメリカ西部ワシントン州。シアトルからフェリーで30分の場所にあるベインブリッジ島は、日系アメリカ人にとって、つらい歴史の最初の舞台です。アメリカでは日米開戦のおよそ2か月後、1942年2月に署名された大統領令により、12万人を超える日系人が「敵性外国人」とみなされ、強制収容所に送られました。
尾関記者
「80年前、強制立ち退きが全米で初めてこの島で行われ、日系人たちは、まさにこの道を通ってフェリー乗り場に向かいました」
日系人227人が住む小さなコミュニティが、まず強制立ち退きの対象になりました。
島に住むリリー・コダマさん(87)。当時7歳だった彼女は、あの日、行き先を知らされぬままフェリーに乗りました。
強制収容を経験したリリー・コダマさん
「私の知っている日本語に『仕方がない』と『我慢』があります。親たちが不満を言っていた記憶はありませんが、とんでもない状況でした」
アメリカで生まれ、アメリカ人として育ったコダマさん。収容所での過酷な生活で感じたことがあります。
強制収容を経験したリリー・コダマさん
「見張り台の兵士が私に銃口を向けていたことがあります。とても怖かったです。誰かに認めてもらいたかった気がします『私はアメリカ人だ、日本人じゃない』と」
日系人に向けられた憎しみの視線。一方、島では違う動きが起きていました。
当時、島の人口の1割ほどを占めた日系人を地域の仲間と考えていた人も多かったといい、地元の新聞は、日系人の強制収容が「憲法違反だ」と政府を批判しつづけていたのです。
ベインブリッジ島歴史博物館ケイティ・クリスさん
「新聞は強制収容が間違っていると思っていた島の人たちを後押ししました」
日系人の家や畑を管理する人もいたといい、現在、コダマさんが住んでいる家も、島の人が大切に守ってくれていたものです。こうした差別や偏見に流されなかった人たちの歴史から学ぼうと島では毎年2月、子どもたちに強制収容についての特別授業が行われています。
強制収容を経験したリリー・コダマさん
「人種差別は、今なおあります。新型コロナがアジア起源だからとアジア系が皆悪いと言う人がいますが、私はほとんどの人が良心的だと信じたいです」
80年前、日系人たちが収容所へと送られた道。ここに掲げられた「ニドト・ナイ・ヨウニ」という言葉には悲しい歴史を繰り返さないという、島の人たちの願いが込められています。
(18日10:41)
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