戦争マラリア石垣島で3647人死亡78年前にあったもう一つの沖縄戦大越取材(2023年6月22日)

戦争マラリア石垣島で3647人死亡78年前にあったもう一つの沖縄戦大越取材(2023年6月22日)

『戦争マラリア』石垣島で3647人死亡…78年前にあった“もう一つの沖縄戦”大越取材(2023年6月22日)

沖縄は23日、太平洋戦争末期の沖縄戦から78年の『慰霊の日』を迎えます。当時、沖縄本島から200キロ離れた、石垣島をはじめとする八重山地方では“もう一つの戦争”が起きていました。アメリカ軍が上陸していない八重山で何が起きていたのか。大越健介キャスターが現地で取材しました。

大越キャスター:「このところニュースで見る、石垣あるいは与那国は、守りの要、安全保障上の拠点として扱われることが多くて。ニュースとして石垣島の取り上げ方が変わってきている」

ハイシーズンに突入し、街中が観光客でにぎわっている石垣島。その“安全保障上の拠点”は、賑わっている中心部から、港に行くとすぐ目に入ってきました。

大越キャスター:「ずらりと並んでいるのが、1000トンクラスの大型の巡視船です。石垣海上保安部では、17隻の巡視船・巡視艇が所属しています。今も何隻かは出動しているということです。東シナ海で、領海の警備にあたっているのかもしれません」

石垣島があるのは、沖縄本島からさらに西。尖閣諸島に近い島で、その距離は170キロほどです。そんな尖閣周辺では、21日も中国の船が領海侵入してきたばかりでした。しかし今、石垣島が担っているのは島しょ防衛だけではありません。

大越キャスター:「石垣島の埋め立て地に来ています。目の前に自衛隊の車両、様々な施設類が現れました。向こうに見えるのは、巨大なレーダーではないかと思います。向こうの方に、砲身を朝鮮半島の方に向けているのが、PAC3(地上配備型迎撃ミサイル)です。北朝鮮からの、偵察衛星発射に備えて、万が一の場合には迎撃するということです。梅雨が明けそうな、この石垣は、青い空で、風もさわやかですが、こうした自衛隊の車両・施設が、目の前に突然、現れる。それが今の石垣島の現実です」

ある島民の方は、この光景を「ウクライナのようだ」と話しました。県外の人たちの目にはどう映ったのでしょうか。

愛知県在住:「石垣島にもあるんだなって思いました。正直ニュースとかで見てて、全然別世界の話というか、あんまり目にする機会がないので。(Q.すごくきれいな海と穏やかな観光地の石垣。施設類・車両などを見て、何か感じることは)沖縄だなって感じはしますね。沖縄って米軍ってイメージがあるので」

横浜市在住:「与那国もこれありました。平和だと思いながら、そうでもないというのが。(Q.少し複雑な気持ちに)なりますね。平和じゃないんだなって」

この島に自衛隊が駐留する。それは島民たちにとって、別の記憶を刺激することもあります。

大越キャスター:「先の戦争の八重山地方の記憶をつないでいく平和祈念館です。ここに八重山地域の犠牲者の数が書いてありますが、全人口の半分がマラリアにかかって、全人口の1割強が亡くなったということです」

マラリアは、結核・エイズに次ぐ世界三大感染症の一つです。ハマダラカを媒介することによって感染が広がり、死亡率も高く、世界では今でも年間60万人以上が亡くなっています。

大越キャスター:「参謀長の手記というのがあって、避難命令を通達したと書かれています。住民は、このマラリアでバタバタと亡くなったのが、歴史上の事実」

惨劇が起きたのは1945年、戦争末期のことです。軍は島民たちを森の中へ強制避難させましたが、そこで島民たちが次々にり患し、3647人(うち石垣島2496人)が亡くなりました。“戦争マラリア”“もう一つの沖縄戦”とも言われているものです。

「刺されるとマラリアにかかることを、島の人たちは昔から知っていたので、よほどのことがない限り、山に深く入ることはなかった。けれど、日本軍の避難命令で、島の人たちは山へ行くしかなかった。戦争中は軍の命令には絶対に逆らえなかった」

佐久川勲さん(83)は、母と姉・弟・妹の4人を“戦争マラリア”で同時に亡くしました。

佐久川さん:「(Q.お母さんと兄弟をマラリアで亡くされた。そういった生活の中でマラリアに)最初、震えがくる。ちょっと寒いな寒い寒い。同時に熱が38度、39度、40度どんどん熱が出てくる。立っても座ってもいられない。それで寝てしまう。震える、ガタガタ。お母さんは震えを見て、毛布を持ってくる、家から。抑えるんで、上から。あんまり寒くて震えるから。お母さんは『頑張れ』『大丈夫』こうしてやるわけ」

4人は数日間苦しみ続け、そして亡くなりました。

佐久川勲さん:「お母さんは、一番最後に亡くなった。お母さんの手を握って、震えながら。今でも分かる。覚えている」

地獄と呼ばれた、いわゆる“避難所”はどういった場所なのでしょうか。八重山戦争マラリア遺族会・唐眞盛允会長(71)は戦後生まれですが、兄を“戦争マラリア”で亡くしました。今は後世に伝える活動をしています。

唐眞会長(71):「ちょうど今頃ですね。ボウフラがまん延しているから。沢のほとりに掘っ立て小屋をつくって、何百人が小屋をつくって避難していたわけなんですよ。軍の命令によって、こういうまん延地に行かされて、たくさんの命を落とした」

島内には全部で7カ所の避難所があったといいます。

唐眞会長:「ここは地域の住民が避難した土地で『武那田原』。(Q.新しい建物ですね)あそこは自衛隊。新しくできた駐屯地ですね」

石垣島では今年3月に、陸上自衛隊の駐屯地が開設されました。

唐眞会長:「(Q.マラリアで命を落とした人たちのすぐ近くに、自衛隊の基地がある)すぐそこに住宅地があります。沖縄本島から移住してきた方たちがほとんどなんですよ、戦後。沖縄本島で、米軍基地で土地を収用されて。自衛隊基地ができると、どうしてもうるさい。オスプレイが飛んでくる可能性も十分考えられますので。軍用車両が通るのも頻繁になる。反対運動が起きていますね。(Q.駐屯地ができたことについては)もうできてるものだから。基地が増強されないように見守るしかないですね」

■石垣島“戦争マラリア”の悲劇
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(Q.取材をしてどう感じましたか)

大越キャスター:「私はこれまでも度々、沖縄に取材に来ました。しかし、八重山地方で“戦争マラリア”と呼ばれる悲劇があったことを、初めて知りました。マラリアがまん延する場所であると知りながら、そこに軍は住民を強制的に避難させました。その理由は、軍の作戦が住民を通じて、アメリカ軍に漏れること防ぐためとみられています。人の命よりも機密保持を優先させた結果が、このような悲劇につながりました。この悲劇は、最悪の戦争被害の一つとして、私たちは記憶にしっかり留めなければならないと感じました。6歳の時に母親と兄妹を亡くした佐久川さんは『自分は、この命の続く限り、語り継いでいきたい』と話していました。時折、涙で声を詰まらせながら力説していた姿が強烈に印象に残っています」

(Q.伝える側の皆さんは、時間が経って戦争の記憶が風化していくことを、どう感じていましたか)

大越健介キャスター:「戦争が風化していくかもしれないという心配を、皆さん口にされていました。しかも、東アジアの情勢が不透明さを増すなかで、沖縄の安全保障上の重要性がクローズアップされていく。そのなかだけに、過去の戦争の記憶が遠のいていくことへの懸念は、共通していました。遺族会会長の唐眞さんは、私をある場所に案内してくれました。そこから見下ろす場所には“戦争マラリア”でたくさんの人がなくなった避難所がありました。しかし、そこは今、樹木が生い茂って、ジャングルのようになっていて、入ることができなくなっています。一方で、その近くには真新しい自衛隊の駐屯地ができていました。そのコントラストに、唐眞さんは複雑な表情を浮かべていました。安全保障上の沖縄の重要性が増しているので、予算も人員もつぎ込むのであれば、同じエネルギーを持って、先の戦争の記憶をつないでいく取り組みを、国を挙げて行うべきだと考えます。時間が経過し、戦争が遠のいていくなかだからこそ、あえて意識をして、その努力を続けていく必要があると思いました」
[テレ朝news] https://news.tv-asahi.co.jp/a>

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