宮世琉弥さん「偶然が重なって生きていられる」 宮城・東松島市で被災…12年ぶりの自宅へ【つなぐ、つながる】 |TBS NEWS DIG

宮世琉弥さん「偶然が重なって生きていられる」 宮城・東松島市で被災…12年ぶりの自宅へ【つなぐ、つながる】 |TBS NEWS DIG

宮世琉弥さん「偶然が重なって生きていられる」 宮城・東松島市で被災…12年ぶりの自宅へ【つなぐ、つながる】 |TBS NEWS DIG

宮世琉弥さんは、12年ぶりにそこを訪れた。津波で流された自宅があった場所。両親に電話で確かめ、なんとかわかった。

宮世琉弥さん
「この景色と自分の記憶を照らし合わせながら、重ねながら、今すごく思い出しています。当時のことを」

■小学1年生で被災 12年ぶりの自宅は・・・

2022年、TBSドラマ『君の花になる』に出演して注目を浴びた宮世琉弥さん。

CMやドラマに立て続けに起用され、いま最も活躍が期待される若手俳優の1人だ。

震災発生当時は、宮城県・東松島市の小学1年生だった。

あの日、東松島市の野蒜海岸には高さ10mを超える津波が押し寄せた。市街地の約65%が浸水。7割以上の住宅が倒壊するなど、壊滅的な被害を受けた。

宮世さんの自宅も津波に流され、市内の親戚の家に避難した。以来、震災当時の地元を訪れることはほとんどなかった。

宮世琉弥さん
「嫌な記憶を思い出したくないというのは絶対あったなと。あんまり考えないように生きてきた」

宮世さんは2月、その地元を12年ぶりに訪ねた。
自分の目で現場を見て、両親や、地元で暮らす人たちにも話を聞き、自分の“いのちがどのようにして守られたのか”を確かめる。そして、震災を風化させないよう、伝えていきたいという。

宮世琉弥さん
「伝える側だったら、乗り越えなきゃいけない部分がある」

■「妹たちをそのまま迎えに行っていたら…」流された車と“偶然”

12年前の3月11日、宮世さんは(旧)浜市小学校で帰りの会の途中、激しい揺れに見舞われた。

そしてまもなく、母が車で迎えに来た。後部座席に宮世さんを乗せ、母の車は田んぼの間の道を走っていた。

宮世琉弥さん
「景色は覚えていますね。断片的に、そこのバッていう感じは覚えています」

「保育園にいる妹を、これから迎えに行くのかな」 宮世さんがそう思っていたとき、泥水が地を這うように迫ってきたという。

津波だった。

「母さんが車をUターンさせて走ったんですけど、やっぱり追いつかれちゃう」
「洪水みたいにきて、流されて」

水量を増した津波に、車ごと押し流されていく。

「当時の記憶がフラッシュバックしてきて、不思議な感覚ですね」
「当時は怖いとかはなかったんですけど、何が起こっているのか分からないっていう方が強かった」

そして…道路上を数百メートルにわたって、津波に流されてきた車。緩やかにカーブする地点で道を逸れ、斜面に乗り上げた。

宮世さんと母親は即座に車を飛び出した。そして、斜面を必死に登った。

その後、津波は勢いを増し、乗っていた車は流されていったという。

宮世琉弥さん
「妹たちをそのまま迎えに行ったりとか、どっちか違う方を選んでいたら…死んでいたかもしれない」
「1つ1つ偶然が重なって、いま生きていられるんだというのは…現地に戻ってきて思いますね」

少しでも何かが違っていたら…“自分のいのちが失われていたかもしれない”。

高台に逃げた宮世さん。12年ぶりに現場を訪れ、そこで目にした光景がよみがえってきた。

宮世琉弥さん
「流されている方がいましたし、遺体もそのとき初めて見たので」
「自分だけが助かって良かったのかとか、当時はそういうことも思ってましたね」

仲の良かった同い年のはとこも、亡くなった。

「亡くなったっていうことが嘘だと、ずっと信じ込ませていました。自分の中で」
「自分じゃないいのちもたくさん失われたので。悲しいし悔しいし…色んな感情が湧いてきますね」

■幼なじみとめぐる母校、約400名が一夜を過ごした小学校

続いて母校の小学校を訪れた宮世さん。待っていたのは3歳の頃からの幼なじみ、高橋秀色(ひいろ)さんだ。

2人の母校は津波で大変な被害を受け、取り壊しも検討されたが、今は植物工場として校舎の一部が活用されている。

あの日、宮世さんが母親の車で学校を離れた後、津波は校舎の2階まで押し寄せ、秀色さんらは3階部分へ避難した。

今も当時のまま残されている3階の小さな音楽室で、同級生や近くの住民ら約400人もの人が一夜を過ごしたという。

宮世琉弥さん
「俺は学校にいたわけじゃないから、秀色たちがどんな経験してるか全然わからないから。どういう感じで津波が来た?」

高橋秀色さん
「まず家が動き出して流れてきて。そこからもう一瞬にして真っ黒い波が流れてきた」

これまで互いに話すのを避けてきた、“震災当日の話”。12年が経ち、2人は初めて当時の経験を確かめ合った。

ーー琉弥君が学校にいなくて心配だった?

高橋秀色さん
「本当に心配でしたよ。帰ったことを僕は知らなかったので、人がいすぎて『どこにいるのかな』って探したりはしたんですけど」

宮世さんには今、秀色さんに聞いてみたいことが…

宮世琉弥さん
「震災を経て、自分がこれからどうしていきたいっていう職業や将来の夢とか理想像ってある?」

高橋秀色さん
「僕は震災を経験する前まではモノを作る仕事、設計士とかが夢だったけど。震災を経て、当時まっさらだった土地を見て、震災復興のために、地元のためになるような仕事に就こうかなと」

宮世琉弥さん
「いのちの大切さっていうのを、もっと色んな人に伝えていきたいよね」

高橋秀色さん
「“いのちの大切さ”が本当に経験できた出来事かなと思う」

■無事だった児童たち・・・保護者に児童を引き渡したことに残る後悔のわけ

12年前、小学1年生だった宮世さんは、学校に迎えに来た母親と一緒に津波に巻き込まれたが、何とか助かった。
だが実はそのとき、学校には宮世さんの行方を案じ、気が気でない男性がいた。

田母神信幸 教諭
「当時、浜市小学校にいた田母神です。よろしくお願いします」

当時、田母神教諭らは津波が校舎に到達するまでの間に、学校に残っていた児童を3階に避難させ、安全を確保した。

しかし、宮世さんを含む20人の安否が分からない。迎えに来た保護者に引き渡してしまったためだ。児童の多くは沿岸部に住んでいた。

田母神 教諭
「当時はまだ(保護者が)迎えにきたら帰すというような考え方もありましたので。『いや、絶対ダメです』とまでは言えなかったというのは、反省すべき点かなと思います」

結局、20人は全員無事だった。だが先生は児童を引き渡し、いのちの危険にさらしてしまったことを、いまも後悔していた。

宮世さんが初めて知った、先生たちの思い。

宮世琉弥さん
「すごくびっくりしましたし…本当に有難い気持ちでいっぱいです」

宮世さんの母校は近くの学校と合併し、別の場所に移った。子どもたちにとって宮世さんはいま憧れの存在だ。

学校には、宮世さんの同級生が卒業前に書いた3月11日への思いが残されていた。

震災後、転校した宮世さんは初めて目にする。

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