【ノーカット】「凡人だと忘れぬよう心掛けた」小渕前総理へ村山氏の追悼演説 2000年(2022年10月24日)
10月25日、立憲民主党の野田佳彦元総理大臣が安倍晋三元総理の追悼演説に立ちます。
過去の政治家による追悼演説や弔辞を振り返ります。
2000年5月14日に総理在任中に急逝した小渕恵三前総理大臣の追悼演説が、30日衆議院本会議で行われました。
壇上に立った社民党の村山富市元総理は、小渕氏を「君」の二人称で呼び、「沖縄サミットだけは君の手で完結させてほしかった」と惜しみました。
傍聴席の妻・千鶴子さんは遺影を手に何度も涙をぬぐい、のちに後を継いで衆議院議員になる次女の優子さんも耳を傾けました。
ノーカットでご覧ください。
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ただいま議長からご報告のありましたとおり、本院議員、前内閣総理大臣小渕恵三君は、去る5月14日、順天堂大学附属順天堂医院において逝去されました。
君は、去る4月1日、与党党首会談の後、突然体調の不良を訴えられ、そのまま順天堂医院に緊急入院し、ご家族を初め医師団一体となった看護もむなしく、全国民の回復への願いもかなわず、62歳という若さでその生涯を閉じ、不帰の客となられました。
君を失ったことは、本院にとっても、我が国にとっても惜しみて余りある痛恨の極みであります。
君の御遺体が御自宅に向かう途中、国会や自民党本部、首相官邸前を通り抜けたとき、永田町はにわかに激しい雷雨に襲われました。
道半ばにして倒れた君を思うとき、雷鳴は君の悲痛の叫びであり、驟雨は君の無念の涙であったと思えてなりません。君の不運への天の深い慟哭でもあったのでありましょう。
ここに、私は、皆様の御同意をいただき、議員一同を代表し、ありし日の君の面影をしのび、謹んで哀悼の意を表し、追悼の言葉を申し述べたいと存じます。
小渕恵三君は、昭和12年6月、群馬県吾妻郡中之条町において、製糸業を営み、その後衆議院議員となられた父・光平氏と母・ちよさんの次男として呱々(ここ)の声を上げられました。
地元の中之条の小中学校、そして学習院中等科を経て、都立北高校卒業後、昭和33年に早稲田大学文学部英文学科に入学を果たされました。
ちょうどこの年、5月の総選挙で、父・光平氏が昭和24年以来6年ぶりに返り咲きを果たし、小渕家は当選と入学という二重の喜びに包まれたのであります。
しかし、その喜びもつかの間、父君が卒然と世を去られたのであります。享年54歳、再選を果たしてわずか3カ月のことでありました。
徒手空拳で身を起こし、政治家としてもまさにこれからというときでありました。
父君の突然の死に直面した悲しみの中から、「この時の父の気持ちを思うと、政治家になって父の無念を晴らし、父を当選させてくれた地元に恩返しをしなければ」と、君は父君の志を継ぐべく政治家への道を決意したのであります。
大学では、政治を志す者として雄弁会に入り、議員の激務に備えて合気道とボディービルを習い、書や詩吟をたしなみ、多忙な学生生活を送る一方、昭和34年には、地元に吾妻青年政治研究会を設立、中之条町の青年を集め、ともに政治を語り、地域とのきずなを深めてまいりました。
昭和37年、大学卒業後、さらに政治の勉強を続けるため、大学院政治学研究科に進学をされました。
そして、大学院在学中「これからの政治家は世界を知らなくてはだめだ」との思いから、38年1月、単身、トランク一つで旅に出たのであります。当時、まだ米国の統治下にあった沖縄を皮切りに、何と38カ国を訪れたのであります。
この旅行のハイライトはワシントンでロバート・ケネディ司法長官との面会を果たしたことであります。
一介の学生に快く会ってくれたことに感激し「分け隔てなく多くの人に会わなければ」と、生涯を通じた庶民派小渕の原点となったのであります。
待ち望んだ衆議院の解散はその年の10月、総選挙は11月21日と決まり、君は、福田、中曽根元総理、社会党の現職2人という強豪を相手に群馬3区から立候補し、激しい選挙戦を戦い抜いて、26歳の最年少で見事に初陣を飾ったのであります。
憲政史上にもまれな学生代議士の誕生でもありました。
こうして本院に議席を得られた君は、有権者のかたい支持と信頼を得て、当選すること連続12回、実に在職36年9カ月に及び、本院にあっては、大蔵委員長、安全保障特別委員長、予算委員長を歴任し、自由民主党にあっては、青年部長、国会対策副委員長、幹事長、副総裁の要職につかれ、議会や党の政策立案と運営に多大な尽力をされたのであります。
また、内閣にあっては、昭和54年11月には大平内閣の総理府総務長官・沖縄開発庁長官として初入閣を果たされました。時に小渕恵三、42歳の若さでありました。
さらに、昭和62年11月、竹下内閣が発足するや官房長官に就任。君は持ち前の気配りと人柄のよさで、与野党問わず、陳情や要望に耳を傾け、「千客万来」、「開かれた官邸」を目指す総理の期待に見事にこたえたのであります。
竹下内閣に課せられた最大の課題であった税制改革、消費税の導入に尽力するとともに、竹下総理の政治哲学でもある「ふるさと創生」に腐心され、政府関係機関の地方移転が実現をしたのも大きな功績でありました。
また、昭和と平成の橋渡しという歴史的な大役を果たされました。
昭和天皇の崩御に対する深い悲しみと新しい時代に向けた期待感が混在する中で、官房長官として「新しい元号は平成であります」と発表されたときの映像は、すべての国民の記憶に深く刻み込まれております。
君は、「平成長官」、「平成のおじさん」と親愛を込めた愛称で、国民から親しまれてきました。
この橋渡しが、次代を担う政治家として小渕恵三君を国民に深くアピールする契機となったのであります。
その後、橋本内閣において外務大臣に就任され、今までの積極的議員外交の集大成として、みずから各国との友好関係の樹立に多大な功績を残されました。
中でも、対人地雷全面禁止条約の締結に当たっては、アメリカなどの強い反対と官僚の抵抗にもかかわらず、外務大臣としてのリーダーシップを発揮され、この条約に敢然と署名をされ、我が国の平和への強い決意を世界に示すことができたのであります。(拍手)
このことは、平和を何よりも愛し、人類愛に燃えた政治家・小渕恵三君の特筆すべき決断でありました。
そして、平成10年7月30日、橋本政権を引き継ぎ、第84代内閣総理大臣の重責を担うことになったのであります。
君は、総理としての初の所信表明演説で「我が国の直面する重大な事態を直視するとき、今日の勇気なくして明日の我が身はないとの感を強くいたしております。
全身全霊を打ち込んで国政に取り組んでまいります」と決意を述べられました。
時あたかも、日本経済は深刻な不況に見舞われ、金融システムも不安に覆われ、他方で、多額の累積債務を抱えて、経済の再建か財政の立て直しか、厳しい選択を迫られておりました。
君は、まず、喫緊の課題として経済再生を旗印に掲げ、二兎を追う者は一兎をも得ずと、終始一貫揺るぎない信念を持って、経済再建に心血を注がれたのであります。
また、中央省庁改革、地方分権、情報公開、北方領土問題の解決を含む日ロ平和条約交渉の促進など、内外に山積する政治課題にも果敢に取り組んでこられました。
さらには、二十一世紀の日本のあるべき姿を見据えつつ、輝ける未来の人材を育てるための教育立国、科学技術分野で日本が重要な位置を占めるための科学技術立国の実現に心を砕かれました。
さらに、業績の中で特筆すべきは、我が国でサミットを開くに当たって、開催地を沖縄に決めたことであります。
サミットを無難にこなすためなら、開催地は東京でも大阪、京都でもよかった。
むしろ、東京から遠く離れ、今なお生活・産業基盤の整備がおくれている沖縄は避けるべきだという意見も当然あったはずです。
ところが、君は毅然として、サミットの開催地を酷暑の沖縄に決断したのであります。
思えば、この沖縄サミットに、君の政治家としての誠実さが象徴的にあらわれています。
君は、学生時代から何度も沖縄に足を運び、本土防衛のために23万人が犠牲となり、戦後は、アメリカの施政権のもとに、本土から切り離され、苦しい中で本土復帰を訴えた姿を目の当たりにして、沖縄への思いを心に刻みつけたと聞いています。
革新が、日米安保反対、沖縄の本土復帰を訴えて大規模なデモを組織した1960年前後、君は保守の側で沖縄文化協会をつくり、沖縄問題への取り組みを始めていたのであります。
サミット開催に当たって無難を大事にするなら、若いころからの思いに目をつぶることでした。
だが、易きにつくため信念をあいまいにし沖縄の人々の痛みを無視することは、君には到底できない相談でした。だから、困難を承知で、あえて沖縄サミットに踏み切ったのです。
その熱い思いが沖縄の人々をどれほど勇気づけているかは、立場こそ違え、長年沖縄問題に取り組んできた私には痛いほどわかります。
7月21日から23日にかけて沖縄を訪れる先進国の首脳たちは、亜熱帯の美しい海、高い空、濃い緑、それに豊かな文化と人々の優しい人情に目をみはることでしょう。
多くのマスコミが沖縄を全世界に報道することで、工業国の印象が強い日本が実は多様な歴史と文化を持った国であることを、改めて認識し直すに違いありません。そして、あの美しい沖縄で苛烈な戦いがあった歴史に思いを馳せるとき、世界の平和に重要な責任を有している先進国の首脳たちは、平和の尊さを改めて心に刻むはずです。
君は、早稲田大学雄弁会に属していたが、決して多弁ではなかった。でも、朴訥な語りは、人々の心にしみ込む独特な説得力があった。もしも君が沖縄サミットを主催していたら、ホスト国の首相にもかかわらず、かなり控え目に沖縄を語ったことでありましょう。
だが、君ならそれで十分だった。
君の含羞を帯びた語りは、何物にも増して説得力を持ち、君は存在そのものが雄弁だった。そんな君の姿を見ながら、多くの国民は沖縄の痛みを改めて自分の痛みと感じたに違いない。
今となってはかなわぬ夢となってしまいましたが、沖縄に集まる首脳たちの輪の真ん中に、どうしても君にいてほしかった。この沖縄サミットだけは君の手で完結させてほしかった。それが、悔やんでも悔やみ切れない思いとなって、私の心に大きなひっかかりとなっているのです。(拍手)
今日、21世紀を目前に控え、我が国は、急速な少子高齢化、情報化、国際化が進展する中で、大きな変革期に直面しています。
君は「この国のあるべき姿として、経済的な繁栄にとどまらず、国際社会の中で信頼されるような国、いわば富国有徳国家を目指すべきものと考えており、その先頭に立って死力を尽くしてまいりたい」と、その理念を熱っぽく語っておられました。
政府・与党の最高指導者として、全身全霊を込めて国内外の重要課題の解決に当たってこられたことは、私ども同僚議員はもとより、全国民のひとしく認めるところであります。
思えば、この1年8カ月、座右の銘とした「一日一生涯」をそのままに、国家国民に対する旺盛な責任感、厳しい自制と献身の姿を貫き続けてこられたのでありました。 ※この映像にはナレーションはありません。ご了承ください。
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