1923年 関東大震災の映像を解説 貞明皇后の慰問活動 九条武子氏は慈善活動に挺身 (2022年9月9日)

1923年 関東大震災の映像を解説 貞明皇后の慰問活動 九条武子氏は慈善活動に挺身 (2022年9月9日)

1923年 関東大震災の映像を解説 貞明皇后の慰問活動 九条武子氏は慈善活動に挺身 (2022年9月9日)

テレビ朝日が1984年に復元した1923年の関東大震災の映像には…
大正天皇の皇后である貞明皇后の築地本願寺への行啓や、大正三美人と称されたスター歌人、九条武子氏の慈善活動の様子などが映っています。

元 本願寺史料研究所の歴史研究者で皇室もご専門の辻岡健志さんと、映像に映っているシーンを、詳しく読み解きます。

東京駅丸の内口から西を見た映像です。
皇居方面から黒い煙が出ているのが分かります。
皇居が燃えていたのでしょうか。

歴史研究者 辻岡健志さん:
「宮城の内部でも火気を使用していた主馬寮蹄鉄工場などで火災が発生いたしました。皇宮警察部はいち早く迅速に初期消火に当たりまして、迅速に消火活動がなされたといわれています」

全焼した建物もあったものの、自動車ポンプ隊を出動させて宮城への延焼を食い止めた皇宮警察部は、もうひとつ英断をくだします。

歴史研究者 辻岡健志さん:
「宮城内にある平川門を開扉し、避難民を収容する判断をしたと言われています」

炎はお堀の対岸にまで迫っていました。
殺到する避難者は「潮の如く」「人山(ひとやま)を築ける」と皇宮警察部の震災日誌に表現されています。

歴史研究者 辻岡健志さん:
「1日には2万5000人、2日は3万人が(宮城前に)避難したと。避難所として天幕村という形で形成されていった、避難者は一時、15万人に達したと言われています」

大正天皇の皇后、貞明皇后は、各地の被災者を慰問されました。
この映像は11月30日に築地本願寺を行啓された時のものです。

歴史研究者 辻岡健志さん:
「築地本願寺自体は全焼しておりまして、その焼け跡に日本赤十字社京橋臨時病院が仮設されまして、そこのご視察ということになります」

貞明皇后の公式な記録によりますと午前11時半に皇居を出られ、まず芝公園にできた臨時病院で、傷病者を病室までお見舞いされた後、午後1時、自動車で築地本願寺を訪れたということです。

歴史研究者 辻岡健志さん:
「『深川仏教少年団』という文字が見えますね。千代田高等女学校、築地本願寺が経営する盲人学校、日比谷託児所など800余名の生徒が集まった」

歴史研究者 辻岡健志さん:
「こちら中央に見える人物が後藤環爾。高知県宿毛出身の僧侶でして、特に関東大震災では震災対応に奔走した人物。西本願寺では東京出張所長や後には執行長と呼ばれる西本願寺で事務方トップになる人物で、本願寺の非常に重要な人物です」

そのすぐ隣、眼鏡の女性は…

歴史研究者 辻岡健志さん:
「中央にいる女性が、大谷きぬ子(きぬは糸偏に壬)さん。西本願寺の法主家である大谷光明という僧侶に嫁いだ人物でして、主に仏教婦人会の活動に尽力した方でした。直接は貞明皇后の妹にあたる、九条家出身の人物でした」

この大谷きぬ子氏が姉である貞明皇后に状況の説明をする場面、画面左端にも注目です。

歴史研究者 辻岡健志さん:
「ここでタクトを振っている人物が見えると思います。本願寺の機関誌の『教海一瀾』によれば、深川仏教少年団主任の菅原葆真がタクトを振っているということが残っておりまして、讃仏歌『われらは仏の子ども』という歌を合唱した、という記録が残っています」

800人余りの子どもらによる合唱に貞明皇后はとても喜ばれたといいます。

歴史研究者 辻岡健志さん:
「貞明皇后のお付きである大森鐘一 皇后宮大夫から『ご唱歌がよくできました』というご満足の旨が伝えられたといわれております」

築地本願寺を出発された後、貞明皇后はその足で「宮内省巡回救療班」の仮事務所を訪問されます。

歴史研究者 辻岡健志さん:
「『宮内省巡回救療班』というのは、貞明皇后の思召によって始められたものでして、9月14日から翌年の3月までの間にかけて、被災者の診察をおこなっておりました」

貞明皇后が望まれたこの医療組織は子どもや妊産婦を中心に無料で被災者を診察しました。
9月だけでも7500人余りの患者を診たということです。

こちらは募金活動の映像です。

歴史研究者 辻岡健志さん:
「こちら、児童愛護袋宣伝班 本派本願寺と見えるんですけど、児童愛護袋というのは、西本願寺の仏教婦人会で宣伝していたものになりまして、この中に被災者のための義援金を入れて、この籠の中に集められていくというシーンになります」

本願寺の機関誌に袋のデザインが詳細に分かる記録が載っていました。
発起人4人の女性の名前が読めます。

歴史研究者 辻岡健志さん:
「九条武子さん、大谷光尊の妻である心光院枝子、大谷きぬ子―大谷光明の妻ですね、大谷泰子―大谷尊由の妻らが呼びかけ人となりまして、義援金などを全国各地で募ったと」
「(記述と動画が)まったく一致するという、そういう意味では非常に貴重なもの(映像)になります」

歴史研究者 辻岡健志さん:
「西本願寺の法主家である大谷家と九条家というのは、前近代、江戸時代以前より密接な関係を築いてまして、近代以降も九条家と大谷家というのは親密な関係でした。貞明皇后は元々九条道孝の四女でして、明治33年(1900年)に皇太子 嘉仁親王、のちの大正天皇とご結婚される。大谷きぬ子さんは貞明皇后の妹になりますし、九条家に嫁いだ九条武子も親戚関係になります」

本願寺法主家に生まれ、九条家に嫁いだ武子氏は
この時代のスターでした。

歴史研究者 辻岡健志さん:
「大正三美人の一人と言われていまして、才色兼備の歌人と知られております」
その九条武子氏が、義理の姉妹にあたる大谷きぬ子氏と、日比谷公園で子どもに向けた慈善活動をする映像です。

歴史研究者 辻岡健志さん:
「九条武子自身も関東大震災に遭いまして、その震災経験というのをきっかけに社会事業や児童救済に挺身していくということになります」

日比谷公園は築地本願寺の救護活動の拠点のひとつで武子氏もここで熱心に活動します。

歴史研究者 辻岡健志さん:
「当時、有名な歌人ということもありまして、九条武子が慰問をするということは、震災後の人々に活力を与えるものであったと思われます」

武子氏は仮設ではなく、救護活動を継続したいと考えていたといいます。

歴史研究者 辻岡健志さん:
「九条武子が昭和2年に発表した歌文集『無憂華』というものがあるんですけども、昭和の枕草子とも称される書籍でして、これが非常にベストセラーになりまして、この売れた資金を元手に後に『あそか病院』という病院を設立いたしまして、」「昭和5年に」「九条武子さんの遺志が実現していくという形になります。ただ、九条武子は昭和3年に敗血病を患って亡くなってしまいますので、志半ばで往生したということになります」

この時、40歳でした。
九条武子の実家、築地本願寺の正門のそばに歌碑が立っています。

「おおいなる もののちからに ひかれゆく
 わがあしあとの おぼつかなしや」
[テレ朝news] https://news.tv-asahi.co.jp/a>

ANNnewsCHカテゴリの最新記事