1971年 早稲田マンも初耳?「女子」学習院のあの話(2022年5月20日)

1971年 早稲田マンも初耳?「女子」学習院のあの話(2022年5月20日)

1971年 早稲田マンも初耳?「女子」学習院のあの話(2022年5月20日)

1971年、昭和46年4月の新宿区西大久保、早稲田大学の理工学部です。
そうです。このキャンパスは現在「西早稲田キャンパス」と呼ばれていますが、住所は西大久保でした。
かつて陸軍の射撃場があったところで、理工学部は1967年に新築移転してきました。
理工学部のシンボル、18階建ての研究室棟です。

高さ70.2メートル、ホテルニューオータニの72メートルについで日本で2番目の高層ビルでした。

かつて戸山ヶ原と呼ばれたこの一帯には、木造平屋の公務員住宅や都営住宅、国鉄アパートがなどが立ち並んでいて、真新しい高層ビルの理工学部とは対照的な風景になっています。
今はかなりの部分が公園になっています。

明治通りを越えて都立戸山高校と、となりに学習院女子短大、女子中・高等科です。

女子学習院と言い慣わしますが、300メートルトラックを備えたグラウンドもあり練習する男子の姿も見られました。

早稲田大学の体育局と記念会堂を見つつ、手前の丘の上の国立栄養研究所を越えて、
一帯が早稲田の戸山キャンパスです。
記念会堂と体育局、そして文学部がありました。
中央の13階建てとその手前の7階建てが、研究室棟です。
その周りを教室のある校舎が囲んでいます。
校舎の中には、かつてこの場所にあった附属高、高等学院の校舎をそのまま使っているものもあります。
高低差のある場所に建っている戸山キャンパスは、門から校舎までスロープでつないでいました。
記念会堂を始め多くの校舎は建て替えられましたが、スロープとその正面の校舎に、今も1971年当時の面影が残っています。

記念会堂の向こうにグラウンドと体育局の建物が見えます。
奥の穴八幡を見ながら早稲田通りを越えて、手前が早稲田中学・高校。
奥が大学の本部キャンパス、ひときわ目立つ白い建物が9号館です。

第二学生会館のうしろに、大隈講堂が見えてきました。
まわりの緑は大隈庭園です。

1874年、明治7年に創立者の大隈重信が屋敷を建てるために購入したもので、のちにその隣りの土地を学校開設のために手に入れました。
つまり、こちらは早稲田大学より古い歴史があります。
園内のほとんどは空襲で焼けましたが、入口の門衛所は1902年の完成で、早稲田大学でいちばん古い建物です。

ヘリは大隈講堂に寄っていきます。
正式には大隈記念講堂と言い、1927年にできました。
レンガ造りにも見えますが鉄骨鉄筋コンクリート造りです。
高さ38メートルの時計塔の向こうには大隈重信の銅像がみえます。
都バスの早稲田営業所の上に建つ都営アパートの白い建物です。

グランド坂を越えて、安部球場が見えてきました。
早稲田大学の初代野球部長の安部磯雄の名を取っています。
安部は一方で、社会運動家としての顔も持ち、日本最初の社会主義政党、社会民主党の結成にも名を連ねています。

グラウンドでは試合が行われています。
紅白戦でしょうか。ユニフォームから判別するのは難しいようです。
安部球場は1987年に西東京市に移転し、この場所に今は中央図書館などが建っています。

もう一度グランド坂を渡ります。
本部キャンパス、いまは早稲田キャンパスといいます。大隈講堂も見えます。

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2017年の早稲田大学です。
カメラは大隈講堂に寄っていきます。
その存在感はまったく色あせていませんが、周りを高く大きく建て替えられた校舎に囲まれ、ちょっと窮屈そうです。
それもそのはず、画面左上の大隈記念タワーは高さ75.75メートル、キャンパスでひときわ目立つ11号館は68.5メートルあるそうです。
あの9号館もつつましく見えます。

画面右端にみえる、演劇博物館も健在です。

画面右奥、安部球場の跡にも図書館やホールが建てられています。
左側から戸山キャンパス、そして女子学習院が見えてきました。
[テレ朝news] https://news.tv-asahi.co.jp/a>

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