ずっと供養できなかった78年経て刻まれた叔父の名前大越が見た沖縄慰霊の日(2023年6月23日)

ずっと供養できなかった78年経て刻まれた叔父の名前大越が見た沖縄慰霊の日(2023年6月23日)

「ずっと供養できなかった」78年経て刻まれた“叔父の名前”大越が見た沖縄・慰霊の日(2023年6月23日)

23日、太平洋戦争末期の沖縄戦から78年の『慰霊の日』を迎えました。戦争の継承が大きなテーマとなるなかで、沖縄戦がなお、現在進行形であることを示す場所が、平和祈念公園・平和の礎にあります。

沖縄戦で亡くなったことが判明する方は年々増えていて、その都度、平和の礎に名前が書き加えられていきます。その数は今年だけで365人に上ります。そのうちの1人、沖縄戦で亡くした叔父の最期を、ようやく知ることができたという男性を取材しました。

新たに名前が刻まれたのは、宮里幸正さん(86)の叔父にあたる、渡慶次芳雄さんです。2人が生まれ育ったのは、慶良間諸島の座間味島。宮里さんにとって叔父は、13歳年上の頼れる存在でした。

宮里さん:「ここが母の実家で(叔父の)芳雄さんと暮らした場所。とても優しい穏やかな青年。かわいがってもらって、非常に心に残っている」

平穏な暮らしは、束の間でした。叔父の芳雄さんは、20歳になるかならないかで召集されたのです。

宮里さん:「暗闇の中、徴用された軍のボートで、那覇に出かけたと聞いている。那覇の軍隊の組織に参加した」

芳雄さんが島を出た直後、座間味は激戦の舞台に。沖縄戦で米軍が初上陸した場所となりました。

宮里さん:「これは米軍が上陸した日に捕まった住民。こんな状況で、島に向けて艦砲射撃をしている」

これだけの資料を集めたのは、観光ガイドとして島での戦争を語り継いできたから。ずっと叔父のことが気がかりでした。

宮里さん:「遺骨もないのが現状だった。いやもう気の毒で。70年も放置されていたのは、非常に悲しいこと」

死亡が確認されていなかったので、平和の礎にも刻まれずにいましたが、転機が訪れます。

宮里幸正さん:「戸籍謄本を調べているうちに、亡くなった日時が出てきた」

「沖縄本島・南上原方面で戦死」これを届け出たのは、なぜか熊本県知事だったため、宮里さんも気付けませんでした。

宮里さん:「これを見て、追加刻銘ができることを知り、私が手続きをして刻銘に至った」

戦争で亡くなっていたことが分かり、平和の礎への刻銘が認められました。記憶の中にしかなかった、叔父の生きた証が78年の時を経て、いまここに。

宮里さん:「(Q.2023年、追加刻銘に叔父の名前が刻まれている)本当に感銘です。永遠に、ここに供養の刻銘がありますので、安心しています」

宮里さんには、どうしても訪れたかった場所がありました。

宮里さん:「(Q.初めて訪ねられる)初めてです」

中城村・南上原。戸籍に記されていた、芳雄さんの戦死した場所です。中城は日本軍の防衛ラインがしかれ熾烈な攻撃を受けました。米軍の調査でも、この一帯では少なくとも4757人(1945年4月23日まで)の日本兵が命を落としています。

宮里さん:「救われた気持ち。今まで、どこで戦死して、どこに遺骨があるのかも分からない状態でしたので。今回、糸蒲の塔に800柱まつられているということは、叔父さんもきっと一緒に入っているんじゃないかな。(Q.戦後世代だけの時代に入っていく。そういう世代に伝えていきたいこと、伝えることの難しさは)二度とこういう悲惨なことなど起こらないよう、平和を沖縄から、日本から発信して、平和を求めなければいけないと思っています」

■戦争の記憶の“継承”
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沖縄・糸満市にある平和祈念公園にいる、大越健介キャスターに聞きます。

大越健介キャスター:「78年を経ても、心の中で戦争に区切りをつけることができない人が、たくさんいらっしゃるのは確かです。ようやく、大好きな叔父さんが亡くなった日や、おおよその場所が分かり、平和の礎に名前が刻まれた宮里さんも『これでようやく供養する場所が見つかりました』と、ほっとした表情で話していました。しかし、逆に言えば、沖縄戦で亡くなったことは分かっていても、遺骨も見つからない、いつどこで亡くなったか分からないまま、平和の礎に名前を刻まれた人が数多くいることの裏返しでもあります。私たちは、そうした戦争の犠牲者の無念に、思いを馳せる必要があると思います」

(Q.戦争について、学校で学ぶことはあっても、その後で触れる機会はなかなかありません。沖縄で実際に若者の話を聞いて、どう受け止めましたか)

大越健介キャスター:「私自身、高度成長期に生まれ、平和な時代を生きてきました。平和な日常が当然であるとさえ感じてきました。しかし、ウクライナをはじめ、世界で戦争が頻発する現状を考えた時、決して平和は当然のものではないと、改めて感じました。23日の追悼式、平和の詩のなかで、平安名秋さんは『先人達が紡いできた平和を 次は私達が紡いでいこう』と述べていました。一人の沖縄の若者が発した、この言葉の意味は大きいと思います」
[テレ朝news] https://news.tv-asahi.co.jp/a>

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